久しぶりのピアノリサイタル。
ピアニストはイギリスの女性ピアニスト、イモーゲン クーパー。初めて聴く演奏だ。
Imogen Cooper, 1949年8月28日 66歳。
ブレンデルに師事し、シューベルトを得意とするそうで、今回の演奏プログラムも、後半はシューベルトの「12のドイツ舞曲」と、ピアノソナタ20番(D959)。
会場はほぼ満席。
演奏会場は、国際コンペティションにも使用されるホールだけれど、それにしては市民会館に毛が生えた程度の地味で、あまりにもぱっとしないホール。
世界的に名の知れたピアニストも度々ここで演奏する事があるけれど、現地の住人としてはなんとなく片身の狭い想いをしている。
建物も屋内も全体的に古びている感が否めず、ステージ上の背景や床は一部の木板が剥げているし、装飾類いのものは一切なく、体育館のステージのよう。日本のような立派で洒落たコンサート会場とは比較にならない地味さ加減!
この地で一番のコンサート会場は、ここよりはずっと新しくてきれいだけれど、残念な事に座席によっては音が非常に聴こえずらいのネックだ。そのホールの照明もやけに明るいこともあって、落ち着けない感じがするのに比べて、ここで二番手のこのホールが音の響きが良く、照明も客席は暗くおとしてくれるし、家からも近いので(!)、私的にはこちらのホールの方が嬉しい。チケットが安価なのも更に嬉しい!
さて、前置きはこれくらいにしてコンサートの話。
会場が静まり、客先の照明が落ちて、ステージ右手より、ピアニストの登場。
その瞬間、ステージがぱっと華やぎ目を惹きつけられた。美しい!
今夜の主人公は、えんじ色のロングドレスの上に、キラキラ素材を品よく縁取りした薄い黒の羽織ものをおめしになり、なんとも気品にあふれた足取りで緩やかに、しっかりした足取りでピアノに歩み寄り、客先に向かって深くお辞儀。
遠目で見ても、知性と品格が備わったお方である事が一目瞭然です。
最初のプログラムはショパンの「舟歌」。
素晴らしい演奏。
最初の一音と左手のリズムを刻むモチーフの響きにぐっと惹きつけられた。
いや、素晴らしいという言い方がは誤解を呼ぶかもしれない。
この曲は多くのピアニストが弾く名曲。
色々な演奏を聴いてきたけれど、それは素晴らしく名演という名にふさわしい演奏も数多くあれど、クーパー女史の演奏はそういった所謂素晴らしい演奏とは、一線を画する。
もしかすると、今晩の演奏よりも、要所要所で盛り上げて、華やかにきらびやかに所謂「聴かせる演奏」という点では、他にもたくさんピアニストが存在しているだろう。
けれど、クーパー女史のような演奏は、他の人がとても真似できるものではない演奏といったらいいか。
う-む。人間的な熟成がなせる技だろうか。
決して高ぶらず、力む事なく、大袈裟な表現など微塵もなく、自然で深い情感を湛える演奏
左手バスの部分と右手の主旋律のバランスを保ちながらの際立ち方が見事。
そして、特筆すべきは最後のプログラム、シューベルトのソナタ第20番。
言い尽くせない素晴らしさだった。
シューベルトが亡くなる3年前から一揆に書きあげたという後期の重要な3曲のソナタの一曲。
他のどの作曲家とも違う、シューベルト独特の世界が広がる作品だ。
4楽章構成で、演奏時間は通しで演奏すると、40分前後にもなる大曲である。
震えがきたのが最終楽章の演奏。
この楽章は難易度的にさほど技術を要するものではないが、演奏家によっては全く別の曲に聴こえてしまうくらい、弾き手の全ての感性、人生観、表現力というもの全てが問われる作品だと思っている。
助長で面白くない楽章という人もいるが、クーパーの演奏は、人生の哀愁というものの中に、慰めがあり、後半は涙がはらはら溢れてきて、どうしようもなくなった。
ふと、横を見ると、となりの若い台湾系の男性など、鼻を鳴らして泣いているではないか。
深い慰め、慈愛の感覚、どこまでも許されているという感覚。ああ!これは演奏者が女性であるからこその音楽であると気づいた。
ブレンデルに師事したことのあるクーパーの演奏、どんなシューベルトの演奏なのだろうと楽しみにしていたが、癒され、胸がいっぱいになる演奏を聴かせてくれた。感激である。
ここで考えたのは、男性ピアニストと女性ピアニストの違いということ。
今まではどちらかというと、クラシックの世界全般に言えることだが、男性演奏家にしかできない演奏というものがあって(肉体的にも精神的にも)男性優位というか、クラシックの世界というものが、男の世界であると感じていた。
ウイーンフィルやベルリンフィルにしても、まだ遠くない過去に、アジア系はもとより女性の演奏者というものを一切受け入れていなかった。
私が大好きな演奏、バックハウスとウイーンフィルのベートーヴェンピアノコンチェルトの動画などを見ると、オケのメンバーは全員男性(全員、ほぼ欧米系)で女性は一人もいない。
誤解を招きそうであるがあえて言ってみると、この映像が何とも言えない清潔感を醸し出していて、「ああ・・所詮、女には無理な世界だねぇ」などと、ため息つきながら見ていたのである。
これは男女差別ということではなく、男女の違いからくるものがそうさせるのであるし、そもそもクラシックの作品を作り上げた偉大なる作曲家は一部を除きほぼオール男性である。
そこに表現されている心情は、時代が異なれど、男性としての感情~喜び、怒り、悲しみ、苦しみ・・・etc・・・であって、例えば、苦悶の人生を送ったというベートーヴェンの作品上、表現されている「苦しみから歓喜へ」といったような、対極する陰と陽の強い求心力を備えた感情の類い。女性であるわれわれにどこまでわかるだろうか?想像はできても、実際に体感したり、深い部分まで理解できるものではないと思う。
(だからと言って、女性に弾けないということでは決してない。)
かくいう自分は、ベートーヴェンがとても好きであるけど、作品を演奏していてベートーウェンの人間味みたいなものを感じ取る事ができたとしても、彼が抱えていた”巨大なる苦悩を理解せよ”と言われたとしても、実際は、「無理だわ~」って思ってしまう。
所詮、その時代に生きた殿方の抱えていた苦悩など、女の私にはわからんわけですよ。(言ってしまった・・・)
で、話を元に戻すと、クーパーのシューベルトの演奏は、逆に女性であるからこその演奏であった。
深い慈愛が根底に流れつつ、深い知性を兼ね備えるクーパーによって、センチメンタルに流されることなく、気が付くと、許しが得られて安らぎの気持ちに満たされていたのだ。こんな体験は初めて♪
女性ピアニストの中にもアルゲリッチやピリシュ、内田光子、最近ではショパンコンクールで優勝したアヴェデーワ、若手ではユジャ・ワンのように活躍している演奏家がたくさんいるが、どうも、どちらかというと、皆さん男性勝りな演奏をする方が多く、演奏の印象として、テクニック的にも情熱的にも「凄い!」と思うけれど、女性としてその人がかもしだす音楽、というものを感じ取ったことはなかった。
それにしても、シューベルトは素敵だ。
今晩の演奏について、そんな風に色々想いを馳せる事ができたのも、シューベルトの曲だったからこそかもしれない。
シューベルトの後期のソナタを実際に自分で弾ひ、弾き終えると、まるで長い長い旅から戻ってきたような錯覚を覚える。
人生の旅、という捉え方でいうと、自分の歩んできた人生を音楽と共に辿り、途中振り返り、そして自分の収まるべき着地点をいうものまでもがみえてくるようである。これはシューベルトを弾いてしか感じる事のできない独特な感覚で、ある年齢にいってこそ、わかってくるもので、それがとても素敵なのだ。
ショパンが一区切りしたら、またシューベルトを弾きたくなった。
今夜の演奏会は、女性として、たぶんこれからも一生ピアノを学んでいく上で、目標とするような演奏に巡り合え、この上ない嬉しさと満足感に浸っている。
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by hk198906
| 2015-06-19 18:50
| コンサート